2015年09月07日

父親トレース疑惑。

パクりとかカブりとかトレースとか最近いろいろと考えさせられます。誰しもが、過去の先にある今を生きている以上、そうしたものと無縁ではいられません。みんな何かに似ていて当たり前。似せてなくても似てるかも。似ていることを禁じられたら、何ひとつ大手を振ってはいられません。

元ネタを表示すればいいのか。影響を受けたものを列挙すればいいのか。自分が参考にしているものへのリスペクトがあればいいのか。それはまぁ「責められない」という要件は満たすかもしれませんが、すべてがすべてそうではいられないでしょう。僕などはどちらかと言うと、褒めるよりもけなすことが性に合っているタイプですので、何を引き合いに出すにしろリスペクトもへったくれもないと言えばないのです。

いわゆる二次創作だって、他人様のキャラクター・物語にエッチな妄想を演じさせているものなんかは、どうなんだという話もあるでしょう。これだってひとたび火がつけば断罪案件なんでしょう。貴様、勝手に何をやっているんだと。そりゃまぁお怒りの気持ちはわかりますが、お怒りと断罪にはステップがあるべきで、お怒り=断罪となる世の中は息苦しくてかないません。

僕はこうしたものは未来に向かってどれだけの貢献があるか、積み上げをこそ見ていきたいと思うのです。手癖の悪いのは決して褒められたことではないけれど、その先に新しい未来があるならば、それはそれで控えめに見逃されても悪くないと思うのです。いいとか悪いとかではなく、どこかに向かって次の一歩を踏み出しているのか。何でもかんでも野放図に許すってのも、何でもかんでも潔癖に禁じるってのも、どちらも違っていて、よりよい未来のためにどういう世界でありたいかを考え、少しずつ変わっていくというのが社会の発展だと思うのです。その一歩が断罪コピーとそうでないものをわけていくのではないかと。

和歌の世界には掛詞であるとか本歌取りと言ったテクニックがあります。掛詞は同じ語句にふたつ以上の意味を持たせる、ダブルミーニングです。そして本歌取りは古典をアレンジして新たな歌を生み出す行為です。そうしたテクニックは表層と深層という二段階で構成され、ひとつの意味を現出させたうえで、もうひとつ別の意味を醸しだすという深みを生みます。

何かに影響を受けたとき、それをいただいてきたとき、その先にもうひとつの新しい世界があるのかどうか。似ていて、新たに何も生まないものならば、もとからあるものを使えばいい。似ているけれど、新たな価値を生み出すものならば、新しいものを使えばいい。同じでも、新しい使い方が発見されたなら、それは新しいモノとして認めたらいい。もうひとつの世界へ歩みを進めることができるのか、パクりとかカブりとかトレースとかを考えるときに、その一歩を大切にしたいと思いました。

学問も文化も人間が過去から未来へとつなげていくリレーという意味では同じものです。学問には過去の積み上げがあり、偉大な発見があり、その先を切り拓く問題や解決法がある。参考文献の表示の有無以上に、一歩先に進んでいるのかどうかが大切でしょう。過去とは、「ここまではみんな自動で進んできてね」「ここから一歩先を目指します」の道しるべだろうと。道しるべはゴールではなく、ゴールは道しるべの先にある。

最近、だんだん自分の声や顔が父親に似てきているのを感じます。もともと似ていないつもりだったものが、やっぱり自分は父親の子どもなんだと実感します。気が付けば話し方も似ていたりして。でも僕はパクりでもカブりでもトレースでもなく、新たな一歩を踏み出した新たな人間です。DNAは半分コピーかもしれないけれど、丸ごとコピーじゃないのです。似ているけれど、似ているだけの別物なのです。

僕は、進化コピーをしながら、生きていく生き物なのです。

たとえば次世代のコピーは、半分が僕で半分が能年玲奈という新しい一歩を踏み出したりとかしながら。



posted by フモフモ at 00:14 | Comment(5) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする