2016年01月30日

廃墟温泉。

今日は修善寺まで行ってきました。何をしに行ったのかは来月あたりの日刊SPAを見ていただくとして、そこに書く予定のない話を。

修善寺はわりと行ったことがある観光地です。会社のオジサンと福利厚生の施設にいって、朝まで飲みあかしなんてこともしました。3回くらい行きましたかね。今回は10年ぶりくらいの遠征です。久々に見る修善寺の街は、しっかりとした廃墟で、記憶の中の修善寺もやっぱり廃墟なんですけど、それを超えてくる感じの廃墟で、それはもう荒涼とした気持ちになりました。

温泉ってすごい好きなんですけど、温泉ってすごく寂しくなるんですね。もっといいお宿とかに行けばいいんでしょうが、温泉には昭和の澱のようなものがこびりついていて、夢の跡のようになっている。文明の夜明けを感じた明治・大正、華やかな高度成長でにぎわった昭和、そうしたよき時代の名残があるぶん、猛烈な廃墟が立ちのぼってくる。錆びた壁と割れた窓、営業していない射的場。埃をかぶった名産品。自分でメシ作って自分で食べてる汚いメシ屋。パーマをあてる美容院。スナックの看板はプラスチックに穴があいたまま一応灯り、時を止めたお姐さんが泥のように座っている。

伊香保、熱海、修善寺、湯河原…手近で安く済まそうとするとおおむね廃墟が待っている。結局は、箱根に行くしかないのかと辛くなります。何だろう、箱根はまだギリ生きて動いている感じがするのに、廃墟温泉街は死ぬのをじっと待っているように見える。射的場やスナックが悪いんじゃなく、時を止めたままそれを繰り返しているところが辛い。だって、それはもう華やかな時代には決して戻らないのに、別の輝きを手に入れるために変わることをも捨てて、滅びるのを待っているってことじゃないですか。

地方の死なんてよく言いますけど、それはやはり変わることを拒んだ人が集っているせいだと思うのです。少しずつ廃墟になっていく街だったり、汚れていく建物だったり、開かない店だったり。確かにそこにかつて居た人が今も権利を持っているのかもしれないけれど、時の流れに乗れなくなったら、やっぱりその権利を捨てるというか譲るようにしないと、何もかもがダメになるような気がします。

商店街にときどき閉まったままの店とかあるでしょう。「VHSダビング高速」とかの滅びた文化を喧伝するような店が。あぁいうのを強制的に取り上げてローテーションできる仕組みを作ることが、地方の活性化につながるんじゃないかと思うのです。そんなのばっかりだったら、元気がよくて夢のあるヤツぁみんなヨソに行っちゃいますよ。

まず、掃除。

とにかく、掃除。

「このままでいいや」っていう気持ちを打ち払うのは掃除だと思います。古くていらないものを捨てて、新しいものを置く場所を作る。ひびの入った花瓶を捨てれば、新しいのを買わなきゃという気持ちになり、新しいのを買ったら花を入れたくなる。僕自身も一番荒んでいる時期は部屋にペットボトルが散乱し、冷蔵庫からコバエが飛び出したりしたものですが、掃除をして洗濯をしてキレイな状態の吹くに毎日着替えたら、心まで洗われるもの。せっかく着替えたし、どこかにメシでも行こうかという気持ちになるのです。

古い建物だからじゃなくて、心が洗われてないからダメなんだ。結局修善寺はノー観光で帰ってきました。むかーしみんなで入った店が残ってたので懐かしいからのぞこうかと思ったんですけど、食品サンプルがきったなくて、棚がガタついていたんでやめました。どうせロクな思い出もないし。4年じゃどうにもなんないとは思いますけど、せめて掃除だけでもしたらいいんじゃないかぁと思いました。

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廃墟遊園地かと思ったら、ココはまだやってるって。

何かゾンビとかと格闘するのに向いてる気がする。



posted by フモフモ at 23:13 | Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする