何だったんだろうコレ。
こんな不親切で不具合だらけのアプリにハマっていたなんて。それでもあの楽しさは嘘じゃなかった。ダウンロードしたときの新しい世界に旅立つような興奮はホンモノだった。最初に広がった世界。自分の町と自分の場所。そして、目の前に飛び出してきたポケモン。あの一瞬の感動が、このアプリのすべてで、頂点だった。
ゲームの中で僕はいろんなものになりました。格闘家にもなった。宇宙戦争のエースパイロットにもなった。魔王を倒す勇者にもなった。ロボット、忍者、アイスクライマー、桃太郎、信長、警察官、重力を自在に操る高貴なる女騎士、あらゆるものになった。でも、きっと、そのどれをも超えて、あの瞬間、僕はポケモンマスターだった。
それは小説が映画化されたときのように。絵で見ただけの雪を初めて触ったときのように。「これがポケモンマスターなんだ」と心が感じた。その面白さが、すべての不具合を超えていった。改めて思います。「楽しさ」「面白さ」が始まりであり、すべてなのだと。とかく、細部を整えたがるヤツが多い世の中ですが、一番大事なところを高く太く伸ばさなければ、何も始まらない。そして、始まってさえしまえば、枝葉の不出来なんてどうにでもなる。それが「楽しさ」の真実なのだと。
キッチリしていることは、たぶん「楽しさ」作りとは違うベクトルのチカラなのでしょう。太く伸ばすべき幹に集中できず、枝葉の斬り落としにも心を砕いてしまうから。「日本は」と言うと大きすぎるかもしれないけれど、僕は、小さくまとまった人間なのかもしれません。僕がもしこの企画の担当者なら、この状態のアプリはきっとリリースできなかった。不具合続出の不安定さと、不親切さを打ち消すことに躍起になっていたはず。
そして、きっと、「楽しさ」がわからなくなっていた。
人生には説明書はないし、親切なレベルデザインはない。すべてが放置で、すべてが自由。どの一歩も、迷いながら踏み出していくからこそ、自由を感じ、夢を抱く。わからなくて迷ったり、ピカチュウが出たぞと聞いて新宿御苑を東から西へ走ったり。そのすべての手探りが、まさにポケモンマスターだった。「このボールを投げるとポケモンを捕まえられる」以外の何も知らないからこそ、こんなに夢中になれたんだと思います。明日何が起きるかわからないから夢を見る、みたいに。
ポケモンGOという熱狂は、本当の楽しさがあるなら、不出来や不具合も味付けになってしまうんだということを、頭ではなく身体で感じることができた貴重な体験でした。今夜、ウチの隣のポケストップにはついに桜は咲きませんでした。逆にウチの近くのジムには結構な強さのカイリューが居座りました。少しずつこの熱狂は去り、こなれたゲーマーたちがGOを支えていくのでしょう。あんなにたくさんいたポケモンマスターはモンスターボールの中にたくさんのドードーを閉じ込めて、いつかそれを忘れてしまうのでしょう。
レベルは17になり、コイキングは20匹ほど集まりました。
手探りでなくなることで、僕の動きは「作業」になっていきます。
ミューが出ても、そのチカラを開花させるのは現実的に無理だと、システム面でのマゾさも見えてきました。
世界でたった1匹、どこかにいるかもしれない伝説のポケモンと出会えたら、それでヒーローになれるゲームでよかったんじゃないのかなぁ。何で、ハムスターみたいに、ひたすら同じポケモン捕まえさせるような仕組みを、どのアプリも突っ込むんだろう。花火って、一瞬で消えるけれど、その輝きはずっと心に残るのに。ハムスターみたいなアプリを楽しむには、僕は飽きっぽすぎて、面倒臭がりすぎるようです。
ポケモンにも、ハムスターにも、僕は向いてないみたいです。
逆にドードー9匹を見たくなってきた。