2016年09月20日

『東京は夜の七時 −リオは朝の七時−』歌詞精読

昨日からずっと浮雲氏の難解なボーカルと向かい合っていましたが、ようやくスッキリしました。リオパラリンピックで披露された『東京は夜の七時 −リオは朝の七時−』の件。メディア向けのセグメントガイドに、まんま歌詞を載せているページがあり、手元にはもちろんないのですが、ウェブ上のいくつかの画像を手掛かりにして、ようやくほぼほぼ正しいだろうものがまとめられました。


『東京は夜の七時 −リオは朝の七時−』

(※手話で始まる)「はやくあなたに会いたい」
「夏は夜」(※東京は真夏の夜の夢 につづく詩の一節)

トーキョーはよるの七時

トーキョーはよるの七時

両手で見晴らす立体模型 (※立体模型の読みはジオラマ)
目的地へ一瞬で接続して (※接続の読みはアクセス)
僕ら自身が扉になったの
トーキョーはよるの七時

あなたが把手に触れれば
噫僕ら夏になってしまう (※噫の読みはああ)
ひと晩中あいしていたい
トーキョーはよるの七時

「待ち合わせは交叉点で」
「もうまどわされないで」
文明と自然が出会す地点
はやくあなたに会いたい
はやくあなたに会いたい

トーキョーはよるの七時
夢みたいに実在する都市 (※都市の読みはまち)
地球の裏側誰か目覚める
トーキョーはよるの七時
本当の愛に気付いている
宇宙の片隅あなた今何処

世界中がいがみ合っても
あなたは一人生きている
一層全能なのと同じこと
はやくあなたに会いたい
はやくあなたに会いたい

トーキョーはよるの七時
落ち着けそうにないのさ
答はここだと生命が呻く

トーキョーはよるの七時
本当の愛を捕らえている
人生は短いあなた今何処

トーキョーはよるの七時



クレジットには「返詞:椎名林檎」と添えられているとのこと。返詞ということは、返事ということ。変詞ではなく返詞ということは、原曲であるピチカート・ファイヴの詞を踏まえることで、解釈もより正確になるという意味です。矢野顕子版の同名曲にまで遡る必要があるかは不明瞭ですが、まぁ渋谷交差点を背景にした映像などを考えれば、矢野版は存在の認知程度で問題ないでしょう。



ピチカートの原曲は、恋人と会いたいんだけれど会えない、という歌です。ぼんやりテレビを見ていたら、おかしな夢を見て、気がついたら「トーキョーは夜の七時」だったという導入から、「待ち合わせたレストランはもうつぶれてなかった」「タクシーの窓を開けて急ぐの」「留守番電話が突然ひとりで廻り始める ひとりで喋りつづける」「今日も少し遅刻してる」「とても淋しい あなたに逢いたい」と、会いたいのに会えない情景をひたすら描写して終わります。

主人公は最後まで「あなた」に会うことはありません。曲調の明るさ、華やかさに比べて、内容は暗く重い歌です。「あなた」は死んでいるかもしれません。待ち合わせたレストランはつぶれているという点に滅びの情景が重なります。そもそも、ぼんやり夢を見て、入り込んだ「トーキョー」という街は東京と同じものなのかどうかも不明です。あえてカタカナで書くことで別の空間、それこそ、ボンヤリと現実感を持たずに見つめている風景のことを表現しているのではないかとも思います。

主人公本人が、「お腹が空いて」という理由づけをしながらも、「死にそう」と言っている点も滅びを感じさせます。実は寂しくて死にそうなのかもしれないし、別の理由かもしれません。明るい歌にするだけなら、死にそうである必要はないのです。この歌で言う「夜七時のトーキョー」は、もっとも華やかに輝いている時間の街であり、これから楽しいことがたくさん起きる街であり、ゆえに主人公の淋しさと強烈に対比されるものです。一番ハッピーでラッキーな時間なのに、一番淋しいのである、そういう情景です。

それは当時の不自由さでもあります。今のように携帯電話があれば、こんなことは起きなかったでしょう。待ち合わせに遅れたら電話かメールをすればよく、はぐれてもすぐに会えます。レストランが潰れたことだって、道を調べている段階で食べログに書いてあるでしょう。「技術の不足」が「人間の不自由」であった時代の歌です。

で、改めて今回の返詞を読みます。

●タイトル
『東京は夜の七時 −リオは朝の七時−』


まずタイトルですが、これはもちろんピチカートの原曲からいただいたものです。本来ならこれを流す閉会式の時間に合わせ「東京は朝の八時」としたいところですが、それは止めたのでしょう。また、ココに矢野顕子版の同名曲にある「リオデジャネイロは朝の七時」というフレーズが使われています。これは矢野版を意識してのものかどうかは不明ですが、もし意識しているならば矢野版⇒ピチカート版⇒椎名版という、受け継がれた音楽性などが暗示される構造になります。少しずつ変容しながら、何かを受け取り、あるいは反発して、日本の音楽文化が発展してきたことを示すかのようなタイトルです。

そもそも何故この曲だったのか、という点は椎名林檎本人次第です。渋谷系に影響を受けていたのか、単に東京というフレーズがある歌から選んだのか。ブラジルではわりと知られた曲だという話もあります。正解は不明ですが、ピチカートがここで採り上げられたのは、日本の音楽文化の系譜をなぞりつつ、オリンピックでのトーキョーショーと連動する効果を感じさせます。五輪版の「パフュームチーム」のように、かつてピチカート・ファイヴが用いた「黒子に徹するプロデューサーとアイコンでもあるパフォーマー」の構造はよく似たもの。椎名林檎も、自身をそのようなアイコンとして扱う黒子(ひとり二役)でもあります。そういう文化、広い意味で「キャラクターを生み出す文化」を感じつつの制作だったのかなと想像します。

そんなことを想えば、作り手の内に残った過去の「レガシー」を感じさせる選曲であり、タイトルなのではないでしょうか。適当に東京っぽい曲を選んだわけではないと思われます。

●第1ブロック
両手で見晴らす立体模型
目的地へ一瞬で接続して
僕ら自身が扉になったの
トーキョーはよるの七時


まず最初のフレーズが違和感から始まります。「両手」で「見晴らす」というあり得ない情景。そもそもパラリンピックで披露する歌に「手」や「目」を前提とした行為を描いてよいのかという疑問。基本的には選ぶべき動作ではないでしょう。「僕は手がない」「私は目が見えない」と言われたら何もかもが台無しです。

しかし、その疑問に対する答えは明瞭かつ鮮やかです。ステージ上では檜山晃によって「立体模型の東京を触りながら、東京の風景を夢想するという」パフォーマンスが演じられています。まさにその情景こそがこの一行目であり、そのパフォーマンスおよび檜山なしには生まれなかったフレーズでしょう。目がなくても見晴らすことはできるという、ポジティブスイッチを入れるフレーズです。

と同時に、コレは現代社会が技術によって解決した不自由を紹介するものでもあります。タップ操作で扱うグーグルアースは、まさに「両手で見晴らすジオラマ」です。目的地へはもちろん一瞬でアクセスし、その場の雰囲気や人々のことまでも知ることができます。僕ら自身が扉になったとは、SNSなどで誰もが誰とでもつながることのできる現代のこと。

ピチカート版の東京では成し得なかったけれど、今ならば容易くなったことがたくさんあるのです。

●第2ブロック
あなたが把手に触れれば
噫僕ら夏になってしまう
ひと晩中あいしていたい
トーキョーはよるの七時


つづくブロックでは第1ブロックによって解決した不自由が、可能にすることを描きます。「あなたが把手に触れれば」は、手や目や足がなくても、生きているならばきっと可能な行為です。「触れる」は誰にでもできるコミュニケーションです。呼びかける相手は不特定ですが、全世界の人々、とりわけパラリンピックという大会の性質上、身体に不自由を抱えた人を想起すべきでしょう。もちろん、大会を心待ちにするファンも含みますが。

あなたが触れれば、僕らは夏になる。冒頭で「夏は夜」と謳った詩につながり、かつ東京五輪の時期にもつながります。檜山は、枕草子を念頭に置きつつ、東京は夏が一番素晴らしいと語ったそうですが、そのイメージを重ねてもいいでしょう。もっとも素晴らしい季節、もっとも素晴らしい時になる、あなたが望むならば東京はそうやってお迎えする、そんな五輪にする。全世界に発するインビテーションなのです。

ここでピチカートも歌ったもっとも素晴らしい時間「夜七時の東京」が意味を持ちます。檜山もピチカートも感じた「夜が素晴らしい」という感覚。単に原曲からいただいただけでなく、夏の夜七時の東京という黄金のタイミングをプレゼンテーションしているのです。「ひと晩中あいしていたい」ほどに素晴らしいおもてなしをすることを約束して。

●第3ブロック
「待ち合わせは交叉点で」
「もうまどわされないで」
文明と自然が出会す地点
はやくあなたに会いたい
はやくあなたに会いたい


カッコ書きでつづられた2行は、この歌が返詞であることをもっとも強く示す箇所です。ピチカートの原曲では、待ち合わせた場所はレストランでした。しかし、そのレストランが潰れてなくなっていたことで、主人公たちのすれ違いは始まります。その待ち合わせを椎名林檎は「交叉点」に変更したのです。この交叉点は背景映像を踏まえても渋谷のスクランブル交叉点でしょう。渋谷の待ち合わせなら、ココという場所です。

交叉点は決してなくなりません。店やオブジェはなくなることがあっても、交叉点は決してなくならないのです。現代はGPSマップ機能などで、知らない町でも道をたどることができる時代。技術の進歩が、絶対になくならないもので待ち合わせすることも可能にさせたのです。この変更によって、ピチカートの原曲の主人公とあなたも、もう決して惑わされることはないでしょう。原曲では「信号待ち」で苛立たされた場所が、今は確かな約束の場所になっている。この20年での変化です。

渋谷のスクランブル交叉点から伸びる道は、明治神宮へ、代々木公園へ、六本木ヒルズへ伸びていきます。徒歩圏に巨大な公園と巨大なビル群が存在し、共存している。そして、道の一本はまさに五輪・パラリンピックのメインスタジアムがある神宮外苑へと向かっているのです。「文明と自然が出会す地点」と表現されるにふさわしく、東京大会がそういう場所での大会であることを誇るにふさわしい。

五輪閉会式のショーでは、この地点でドラえもんとスーパーマリオが出会いました。そして、トンネルを掘り、リオに到達しました。そのトンネルは今もあるのではないでしょうか。地球の裏側からでも、あの「交叉点」には来られるようになっているのです。

だから、そこにあなたも会いにきてほしい。

原曲では「逢いたい」と男女の愛を強く表現する歌詞だった場所を、「会いたい」としたことも意図的なものでしょう。愛によって「あう」のではなく、五輪・パラリンピックによって「あう」のですから、男女や性愛はなるべく遠ざけたい。その意味で、第2ブロックの「ひと晩中あいしていたい」が「愛」の字を使わないのも意図したものと見るべきでしょう。性愛はなるべく遠ざけたいのです。あえて字を当てるなら「慈」の字でしょうか。もちろん「ひと晩」を「一晩」としないのも、1日限りと受け取られないようにするためです。

このブロックにある「交叉点」もそう。日常ではもはや「交差点」と記すのが当たり前ですが、本来はこれは「交叉点」なのです。差はへだたりを表した当て字であり、「叉」こそが枝分かれを示す言葉だからです。つまり「差=まったく別のモノ」であり「叉=同じものが分かれたもの」です。どちらがよりパラリンピックの精神にそぐう表現であるかは、言うまでもありません。非常に細部まで整い、無粋なツッコミや揚げ足取りを許さない、練り上げられた詞です。

●第4ブロック・サビ1
トーキョーはよるの七時
夢みたいに実在する都市
地球の裏側誰か目覚める
トーキョーはよるの七時
本当の愛に気付いている
宇宙の片隅あなた今何処


まず気になるのが「夜」を「よる」としたこと。単なる文字数調整という可能性ももちろんあります。タイトルでは「夜」のままですし。あるいは、矢野版で「7時」だったものが、ピチカート版で「七時」となったことを受けて、何かを変えたいということだったのかもしれません。または、時間という意味での「夜」とは違うものを提示したかったのかもしれません。暗さよりも、美しさを示すような気持ちで。「夜」よりも「宵」が好き、そんな感覚と言えば共有できるでしょうか。どうせなら、そういう意味ある改変ととりたいので、「よる=特に素晴らしい夜のこと」と理解します。

そんな素晴らしい宵の中に、トーキョーは存在します。夢みたいですが実在します。ピチカート版では「嘘みたいに輝く街」と表現された東京は、逆に「夢みたいに実在する都市」とされました。「本当のはずなのに嘘みたい」から「夢みたいだけど本当にある」という正反対の構造に街が置き換えられました。これが返詞であるからでしょうか。なお、原曲では「私があなたに会いに行く」でしたが、返詞では「あなたが僕らに会いにくる」という歌になっているあたりも、構造上の逆転を意識しているものでしょう。

素晴らしい夜があり、素晴らしい技術があり、それがでくわす都市・トーキョーは確かにあるのです。そんなトーキョーは性愛ではない「本当の愛」に気づいています。この部分は英語では「Awake」をあてていました。「Night」に対する「Awake」、すなわち目覚めです。言葉として対比させて、この歌が夜七時を歌う不自然さにも意味を持たせています。

そういう意味では、「よる」は未成熟・未発達のニュアンスも受け取るべきかもしれません。本当の愛に気づいて、夜明けに着実に向かっているけれど、まだ朝とまでは言えない。「完全にできあがった誰もが幸せに生きられる都市です」とまでは自負していないこと、まだ「気づいた」段階であることを、ジンワリと示しているのかもしれません。それは4年後までに解決すべき課題として受け止めながら。

「地球の片隅誰かが目覚める」は、リオと東京の対比として実際にそうです。東京が夜七時に開会式をやる頃、リオでは誰かが目覚めてそれを見ます。今大会では逆の行動を日本でしていました。向こうの夜時間に目覚めて、競技を見守るという暮らしを。それは、時間や空間に隔てられていても、同じものを共有していることの素晴らしさです。つながっている、つながることができる。地球なんて、小さいのです。そしてトーキョーの「Awake」にかけることで、地球のどこかで今も誰かが「本当の愛に、目覚める=気づいている」という、希望を謳った詞でもあります。

そして、地球さえも小さいと感じる心は、宇宙ですら超えていきます。宇宙のどこにいても、もう一緒じゃないか、つながることはできるじゃないかと感じている。その広い宇宙の中では、地球という同じ星にいる「あなた」と「僕ら」は、片隅で身を寄せ合っているも同然です。どこまでも広がる心が、お互いの距離を意識するまでもない些細なものに変えていく。第1ブロックで謳われた技術の進歩が、人間の心をも変えていくという形で、しっかりと受け止められました。

●第5ブロック
世界中がいがみ合っても
あなたは一人生きている
一層全能なのと同じこと
はやくあなたに会いたい
はやくあなたに会いたい


ここは最初、1行目が「睨み合っても」と聞こえましたが、歌詞では「いがみ合っても」でした。どちらかなと迷った箇所だったのですが、最初に「睨み」だろうと思ったのは、それが「視覚の有無」を意識することによって、むしろ「視覚がないほうが争いを生まない」という解釈につながるフレーズになるのではと思ったからでした。しかし、実際は「いがみ」だった。その理由は3行目で明らかになります。

3行目につづく2行目は、孤独ではなく自立を表現するものです。英詞では「own with nothing」という表現で、自立がハッキリと示されています。世界中がいがみ合っていても、「あなた」は凛として立っているのです。それは「いがみ合う」に含まれる、殴り合いや睨み合いや罵り合いを「できない」からでもあります。「ナイからできない」という一段階目。

しかし、実際はもう一段先まで表現は及んでいました。すでに「第1ブロック〜サビ1」までで示された、「今の技術なら何でもできるんじゃん?」という全能感のさらに先にあなたはいる、そういう内容を3行目は歌います。聞き取りが困難だったフレーズ「一層全能」がそれです。英文では「As if just shy of all that is holy」。ざっくり訳すと「まるで神の一歩手前であるかのように」という感じでしょうか。ただの人間よりも、より神聖なるものに近づいた存在として、前の行の「一人生きているあなた」を讃えているのです。

「殴り合いや睨み合いや罵り合いができないからしない」のはもちろんとして、むしろあなたのほうが人とのつながりや、自分ひとりで立つことの難しさ、すなわちいがみ合うことの無意味さを視覚でも拳でもなく「心で」知っているのでしょう。あなたのほうが知っているのでしょう。だから、「睨み合う」なんて狭い話ではなく、心で感じる「いがみ合う」だった。技術の進歩で不自由はなくなり、さらに一人生きることで争いからも解き放たれた「あなた」を「一層全能」な存在として定義したのです。「障がい者」ではなく「一層全能者」であると。(※ここだけ画像が見づらかったのでもしかしたら違うかもしれませんが。セグメントガイドをお持ちのメディアの方からツッコミいただけると助かります。)

●第7ブロック・サビ2
トーキョーはよるの七時
落ち着けそうにないのさ
答はここだと生命が呻く
トーキョーはよるの七時
本当の愛を捕らえている
人生は短いあなた今何処
トーキョーはよるの七時


ここは、これまでに謳われた情景の繰り返しにあたります。「はやく会いたい」という気持ちの高ぶりです。ただ、ひとつ不安だったのが「本当の愛を捕えている」の箇所。ここは聞き取りが難しく「本当の愛に溢れている」もしくは「本当の愛に触れてる」と聞こえていた箇所でした。「触れてる」ではなさそうなので「溢れている」と最初は考えましたが、それはよくないのです。サビ1で語ったように、トーキョーはまだ「気づいた」段階にいるはずなので。溢れるのは早すぎる。

それが「捕えている」ならば納得です。気づいて、捕えて、実現する。まだその途上にあることが明確になりますから。気づくよりも一歩先に進めることで「本当の愛」に近づきつつあるベクトルを示し、かつまだ追い付いたり追い越したりはしていないことが「捕えている」ならば適切に伝わります。

最後につけたしですが、ここまでの返詞を読んで気付かれたでしょうか。この詞は、全行が全角11文字ピッタリで書かれています。カッコ書きの部分も、わざわざ「半角のカギカッコ」を使って書く念の入れようで、ピッチリ整えているのです。「答え」ではなく「答」だったり、「うめく」ではなく「呻く」だったりするのは文字数の調整の跡かもしれません。これは様式美だったり、日本の古典詩にある形式の制限を意識したものかもしれません。「五七五を守るんだ」的な制約というか。とても美しいですね。



制作者が細かく意図を説明する機会はあまりなさそうですが、精読したときに、この曲が選ばれた背景や、この改変を施した理由は、決して「何となく」でないことは感じられます。いろんな理由を踏まえたうえで、表現したいものに合致するからこそ、コレが選ばれたのでしょう。NHKの中継では、作り手が表現したい部分にナレーションの解説が被さり、若干のわずらわしさもありました。どこかで機会を設けて、会場音声のみで再放映する機会があってもよいと思います。予備情報を十分に踏まえたうえで、パフォーマンスだけを感じる時間を。

とてもいい新版なので、「ピチカートなんだ」「オッサン向けの曲なんだ」ということだけでなく、新解釈の新曲として改めてぜひ聴かれるとよいと思います。TOKYO2020のサイトで配信があってもいいんじゃないですかね。ナレ被りなしで、曲だけをしっかり聴きたいですからね。






posted by フモフモ at 23:02 | Comment(13) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
さすがの解釈ですね!すごい!
ちょっと鳥肌立ちました。
教えてくれてありがとうございます。
本編に載せてもいいのでは??
Posted by ako at 2016年09月20日 23:24
「非常に細部まで整い、無粋なツッコミや揚げ足取りを許さない、練り上げられた詞です。」
それを読み解いたフモさんすごい…!
当時「ピチカートの描く世界には色々な形で『死』の陰が暗示されている」と某誌で評されていたのを思い出しました。
Posted by フ女子 at 2016年09月20日 23:57
歌詞を探して辿り着きました。歌詞のみならず、かなりしっかりと分析までされていて、長年の林檎ファンとして嬉しい限りです。ありがとうございます。
林檎さんの表現はとても深く、深いからこそ難解な言い回しだったりして、一見しただけでは理解できない方も多いのではないかと思います。
今回のリオプレゼンで感動を覚えた方々には、これを機に深くじっくりと日本語の良さ、歌詞の意味を考える機会にしていただきたいです。
Posted by rokoko at 2016年09月21日 10:16
一つの解釈としてとても興味深く読ませていただきました。

それと、ナレーションは許してあげてほしいと思います。
どのようなパフォーマンスが行われているのか、あの解説を頼りにした方もいるはず。
Posted by 通りすがり at 2016年09月21日 10:38
すごい!
これ本家のほうに追記として載せてもいいんじゃないでしょうか?
Posted by at 2016年09月21日 16:20

原曲と歌詞が違うのは国際的にはわかりにくい・パラリンピックでやるには障りのある部分があったのかな?とか呑気に思ってましたが、まさかこんなに練り上げられた内容であったとは。
と同時に極個人的に、この曲のキモの一行を敢えて抽出すると「待ち合わせたレストランはもう潰れてなかった」だと思うのですが
これだけ練り上げられた中、フックの塊みたいな歌詞を幾らでも捻り出す椎名林檎がその部分に充てた返詞の、余りにもストレートな優しい言葉にびっくりした数秒後、目頭が熱くなりました。
フモさんがこうやって取り上げて下さらなければ、なんで歌詞変えちゃったんだろ?どまりだったでしょうね。ありがとうございました。

フモさんの分析を読み終わり、四年後を満を持して、待ってました!と迎えたい!!と、病室のベッドの上で、窓の外のドコモタワーを眺めつつ、今、強く思いました。
Posted by ヘラブナボマー at 2016年09月21日 16:25
なんと言っていいか…フモさんありがとう
閉会式の映像と共に、何度も見返すだろうと思います
Posted by at 2016年09月21日 19:10
フモさんの精読作業、おもしろ楽しい!
閉会式以来、「トーキョーはよるのしちーじー♪」がとまらなくなった身には、まことに興味深かったです。
歌詞の1行め、一見難解すぎてわからなかったものが、フモさんレクチャーのおかげで腑に落ちました。
フモさんの読み解きにわくわくしつつ、自分なりの別解釈も試しつつ、このコンテンツを最後の一滴まで楽しみたい!
言葉に多面的な意味や受けとめ方の可能性があって、きらきらのミラーボールみたいです。
Posted by at 2016年09月22日 01:23
先程BSで閉会式をみて、曲が頭から離れず検索したらたどり着きました。
たまたま辿り着いたこちらでしたが、感激しました!!
Posted by at 2016年09月22日 07:45
Pizzicate Fiveのファンです。閉会式をオンタイムで見ていて歌詞がオリジナルと違うなと思ってみてました。きっとどこかに歌詞があるだろうと思って、このサイトに行きつきました。
オリジナルの歌詞は、ちょっと寂しげで別れの予感のある歌詞なので、そりゃ歌詞は変えるよなと思いつつ、曲が閉会式に使われたことに驚きました。
ずいぶんと前向きな歌詞になってるんだなぁと思いました。
本歌?の矢野顕子さんはどう思ったんだろうなぁ。
Posted by po at 2016年09月22日 13:25
歌詞は<pre>にするといいと思うな
Posted by at 2016年09月23日 12:25
歌詞の解釈、感動しました!
本当に、曲と歌詞と映像とパフォーマーのパフォーマンスのマッチが絶妙すぎて好きすぎます。
閉会式の映像も最初に見たときは鳥肌が立ちました。
下記で音源が公開されていますね。
さらに曲のよさに気付かされた次第です
https://www.youtube.com/watch?v=x6ebBKpNUPs
Posted by TK at 2016年10月21日 23:26
こちらには
「リオ2016パラリンピックフラッグハンドオーバーセレモニーメイキング」の映像に曲が流れています。
https://www.youtube.com/watch?v=Ejfdi8ZqWYM
Posted by sorakara at 2016年10月23日 18:05
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